フランス ディジョンから奥出雲

02年フランス 
ディジョンだったか。この日のことはとても印象的だったのに、何故かメモが残っていない。
そのゴシックの聖堂はとりたてて目的物では無く、何かのついでに見ていたように思う。写真も撮り終わり、スケッチも描き終り、少し安心したような気分もあって、僕はその聖堂の側廊にぼんやりと立っていた。
その時バックパッカーのドイツ人らしき青年が一人堂内に入ってきた。そして彼は突然声を発しはじめた。たぶん聖歌の一小節かなにかだったと思う。
彼の肉体の内部で、横隔膜が、声帯が起こした空気の振動は、堂内の空気を満たし、厚い石の壁に伝わり、石は震え、空気と混じり、響き、彼や僕らの鼓膜に働きかけた。そして僕達は音を感じた。
僕は驚いた・・・。
石を音として聴く。光を音として触るような、こんな建築の感じ方があるんだということに。彼は空間をつかもうとした。触ろうとした。空間とはそのようにして姿を現すものであって、あらかじめ存在するものではない。透明で高いその声が堂内を満たした時、石やステンドグラスから入ってくる光までもが変質してしまった。
それは僕らの肉体がこの教会と直接交わったような、とても官能的な体験だった。
中学生の頃、誰も居ない山の中の運動場でボールを蹴っていたら、突然すさまじい雷雨に遭遇したことがあった。運動場の隅にあったプレファブの倉庫に逃げ込み、その中で聞いた空にとどろく雷鳴が今でも忘れられない。
まるでこの世の終わりのような音を聞きながら昔の人が雷鳴を雷神の敲く太鼓の音だと信じた畏怖の気持ちを思った。
小学生の頃、夜眠りにつく前に布団のなかで聞いたいろいろな音のこと。枕にあてた耳から聞こえる脈拍の音に大男が雪道を踏みしめ近づいてくる足音を聞いた。そして裏山から聞こえる梟の声。何者かが蠢く山のもの音。家の何処からか、みしりという音が聞こえる。夜になると昼間には気付かなかった色々なものたちの息づかいが感じられる。そして何者かに見つめられていることがわかる。襖のむこうに広がる暗闇の存在を感じる。
「若い者は今日の仕事のこと、老人は遠近の縁者のこと、また子供達はその現実の中でくらがりから湧く空想へと、夫々耽(ふけ)る。庭の落葉の音、土間を歩く誰かの足音、戸をあけたてする音、猫や犬、泊り舎の鶏の不意な或はかすかな物音、それらは総べて炉の焚火の焰のゆれるのをみつめている人達の想いに添うてしのび歩きする。」― 今和次郎 日本の民家 より
近代以前の生活、それはむしろ意味や形式が支配した世界だったのかもしれない。そのような意味や形式を通じて直接この世界と交感していたのだろう。
それは個性や内面、そして「風景」が発見される以前であり、共同体が解体される前の時代だった。
共有される意味・・イコノグラフィと圧倒的な無名性。








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