建築家 遠藤克彦氏 / 新たな公共性の獲得に向けて

出雲の建築家 江角俊則さんに誘っていただき建築家 遠藤克彦氏のレクチャーを聴きました。場所は広島平和記念資料館

大阪中之島美術館を通じて遠藤さんの言われる「公共性」について自分なりに考えてみました。

機能(美術館)の入ったがシンプルな箱は水害対策として浮かんでいます。浮かんだ箱の下、地形と呼ばれる1階の上にパッサージュがあり、そのパッサージュが誰にでも開かれている場としてまちとつながっているイメージです。パッサージュは上方の箱に侵食し、立体的にシームレスに展開して行きます。図としての箱が都市に浮かんでいますが、ここで地と図が反転し、トポロジカルに虫食いの穴のように立体的にシームレスに連続するパッサージュの方が図としてデザインされていることがわかります。遠藤さんは静的な箱からスクイーズ(squeeze)された場と仰ってましたが、ヴォイドとしての立体的なパッサージュのことだと思います。このヴォイドとしての立体的なパッサージュの「公共性」とは何でしょうか。

僕なりに捉えると、それはコルビュジエの斜床を想起させます。ドミノの水平の床は機能を受け入れる静的な場ですが、その水平の床とシームレスに連続する斜床は機能を拒否する場です。コルビュジエは建築を静的な箱ではなく、そのなかに「構築的に形成された進路」、「建築的プロムナード(散策路)」を挿入していきます。斜床=単一の機能の拒否 こそが、誰にとっても居場所に成り得る可能性を示す場として、公共と私が接続される場としてデザインされているのかなと思いました。

機能に捕らわれない、機能から自由なヴォイドとしての立体的なパッサージュこそが、複雑化する社会の「公共性」を担保する場としてデザインされていると理解しました。

言わば都市の広場や広場とまちをつなぐ路地のような場の復権とも言えそうですね。

 

 

 

広島平和記念資料館のピロティ。

 

「平和の軸線」。平和記念資料館本館、原爆死没者慰霊碑原爆ドームが一直線に並ぶ。

 

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帰りに立ち寄った青木淳さんの三次市民ホール きりり。遠藤さんも「ウラをつくらない」と仰っていたけど、このホールもそういう意味で問題作。裏表ない路地のような不思議な建築でした。建築計画学的な手法ではない、まったく別の原理で生成された迷路のような体験でした。