「住宅」とは何か

夕暮れの阿佐ヶ谷住宅を散策していてイギリスの田園都市のことを思い出した。
そして改めて「住宅」のことを考えてみた。
「住宅」は近代において発見された。「住むための機械」という言葉には、「機械」よりもむしろ「住むための」という部分にこそ近代性があったんだと思う。近代以前「住むための」建築は存在しなかった。例えば日本では農家も町屋もまず働く場所の一部だった。パリのアパルトマンもオスマンの改造までは1階に働く場所やお店があって、あとは上階がそこで働く単身者や複数の両親、子供達などが入り混じって生活する場だったという。戦後くらいまでは日本の商店も皆そうだったよね。他人も一緒に雑魚寝するような生活が当たり前だった。
近代以降「交通(通勤という形態)」が生まれ「働くための場所」と「住むための場所」が切り離された。「住むための場所」には、近代国家の最小単位として発見された「家族」が集められる。そしてその「家族」という独立した単位を収容するための装置として「住宅」がつくられた。「住宅」で構成された街は「共同体」ではない。(ここでいう「共同体」とは、衣食住すべてにわたり、その場所があることで、その一員であることではじめて補完しあえるしくみ、つまり生きていくための前提のようなもの。そこには家族と他人の明確な境界は無かったと思う。自分の子供も貴重な労働力だったし、一緒に働く他人もまた家族同様に大切な仲間だったはず。)

「住宅」・・漠然と自明な存在だと思ってしまうけど、「住宅」というものが人類の歴史上はじめて出現した特異な存在であることに自覚的でありたいと思う。生活は場所を含めた全体性を失った。住む場所と関係の無い、お金を稼ぐ為の場所へ個人が通えば生きていける。住む場所は不動産的判断で選択でき、場所(共同体)から拘束されなくなる。それは、きっと悪いことじゃなく我々が享受できる豊かさに違いない。ただし、「住宅」を設計するものとして、その成立と同時にその存在の根拠を喪失していた「家族」という特異な集まりをどう捕らえるか、意識しなければいけないと思う。
SOHOやコンパクトシティもこうした視点からの問題提起だと思う。
まだよくわからないけど。

写真は05年イギリス レッチワース








にほんブログ村 住まいブログへ



住まいるブログランキング 住まいの総合情報サイト