「空間」のこと「建築」のこと

今日は昨日から引き続き雨。トタンに落ちる雨だれの音は不思議に小さい頃泊まった親戚の家のことを思い出させる。
西洋美術館の続きを少し。
僕は美術のことはわからないけど、西洋美術館の常設展示は好き。クロード・モネの「陽を浴びるポプラ並木」をなんとなく見ていたときにふと思ったこと。
ル・コルビュジェの西洋美術館について前回述べた内容は、いってみれば「空間」のつくられかた。「空間」とは、人(身体)が隣接する異質な場と場の境界を通り抜ける(実際に移動するという意味ではないけど)ときに現れる。僕は「建築」とは人間の知覚(むこうとこちら、高さと低さ、うしろとまえ、かたさとやわらかさ、光と暗がり、見慣れたものと非日常、いろいろな材料のにおい・・)が世界を不均質な場に分けていく、その分節のきっかけを生む境界の設定のことだと思う。そしてその境界に現れる(知覚される)のが「空間」だと考えていた。
ちょっと長い前置きになったけど、こうした「空間」のつくられかたは僕が建築を読むとき、体験するときの基準となるものだった。ところが、現代建築は、こうしたコントラスト(異質な場と場の境界)が無くなってしまったように見える。のっぺりと均質な場が連続していくような感じ(スーパーフラットってこういうことなのでしょうか)。そして建築の内部と外部は境界によって隔てられているというよりも断絶している感じ。こういう現代建築は、抽象的で淡い均質な光の粒子で構成されたような建築写真が似合う。だから、クロード・モネの「陽を浴びるポプラ並木」を見ていたときに、あ、現代建築と似ているなあとふと思った。光に照らされた輪郭も奥行きも無い世界。同じ西洋美術館に常設展示してある17世紀の古典主義的風景画は、こちらはそういう意味で空間的。遠景にはまぼろしのようなローマの廃墟がぼんやりと夕陽に照らし出されていて、近景は日常的な場面が逆光になった森の陰に描かれている。時間帯も光が劇的に変化し、コントラストがはっきりとした夏の夕暮れ。
こういう建築や絵画の変化は、建築家や画家の変化というよりも社会の、というか人間の感性の変化に反応してるんでしょうね。




[ル・コルビュジェ]
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%82%B3%E3%83%AB%E3%83%93%E3%83%A5%E3%82%B8%E3%82%A8








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