現代建築の多様性について、その不自由について

現代建築の多様性について、その不自由について。
それは不均質化ではなく、むしろ均質化の完成の時代だという。そこには本当の自由は無いんだというむなしさがある。現代建築には本質的な差異は無いから。現代建築の多様性は消費されるデザイン(趣味)の差異にすぎない。
西山卯三の「すみ方の記」を読んだときに感じたうらやましさ。「自由」を感じた。「リアル」を感じた。
うまくいえないけど。
石山修武さんの「ひろしまハウス」の建設ボランティアで現地(プノンペン)でのレンガ積みに参加したことがあった。セメントを素手でつかむので指先がアルカリでやられ血がにじんだ。胃が消化不良を起こした。便所にトイレットペーパーは無く柄杓でおしりに水をかけた。朝5時くらいに起きて作業して、それから行水して、日が昇るとみんな寝てすごした。若い学生達の半分くらいが高熱を出して倒れてしまった。夕暮れは大きな川から風が吹いたと思う。そんな生活を経験したのち、石山さんから初めてこの建築について短いレクチャーがあった。「レンガの重みを手で感じてもらいました。そこから今度はこの建築全体の話をします・・」指先の痛みや腹の痛み、香草の匂い、それからメコン川の風景。僕らにとって、そういうものからこの建築は現れてきた。不思議な体験だった。
ボランティアや寄付金による建設は絶望的な困難を生む。竣工というものがハッキリせず、となると設計・監理料などの請求もしにくい。様々な責任もあいまいになってトラブルも起きる。しかしこうした「時間」を建築に導入することで完結した「商品」(消費されるキャラクター)としての現代建築から本質的な差異を生じさせている。「この建築は完成しなくていい」と石山さんは言われていた。
「時間」にはいまだ商品化されない自由があると言われていた。
それにしても困難な時代だ。

写真は02年5月ひろしまハウス現場にて








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