俗ニ生キ 俗ニ死スベシ

ちびとフーが死んだ。
死んで土になった。
でも何かが僕の一部になった。
生きるとか死ぬとかいまだによくわからないけど、死んですべてが無くなるんじゃなくて、何かが残っていくような気がする。別に宗教的な意味ではないんだけど。
初めて死というものを意識したのは小学生の頃だったか。夕方、学校から帰ってきて楽しみに観ていたテレビアニメのルパンⅢ世の物悲しいエンディング曲が流れると何故か人生の終わりのことを思った。



「私にとって一番生々しい死の姿とは、出会っても消えない幻影に似ている。
事前に、意識的であれ成り行きに任せてであれ、作られ、構成されていった幻影が、現実と出会った瞬間に掻き消えてしまう。だが、その幻影は、消えたのではなく、私の想念の、片隅の、しかしけして薄暗くはない、むしろ西日で少し眩しくさえあるような場所に滞留し、時に意識へと浮かび上がり、膨らみ、消えていく。
私にとって死とは、消された予感だ。
いずれ、死に私は打ち倒され、消えていくだろう。しかし、私という意識は、あるいは存在は、あのかき消された想念のように、いずれかの場所に細く、淡く、残り続けるのではないか。現実とは、世界とは関係のない存在であるだろうが、西日の中に棚引く雲のように、人々のあらゆる営みの上を蓋い、背景をなし、ある種の感情や感覚にごく微細だが決定的な表情を与えるのではないか。
この想いは、勝手に抱いたものであり、何らかの証明はもちろん、信仰なり宇宙観なりを背景としたものですらない。ただ、そのように死を、あらかじめ、思い浮かべている。」
「俗ニ生キ 俗ニ死スベシ 俗生歳時記」(福田和也:著 筑摩書房 2003)





2003年。新大久保のアパートの製図板。

縁側のちび。


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