奥出雲 / たたら製鉄 / 棚田

実家の庭から眺めた冬の風景(奥出雲町 佐白)
ここは雲南から仁多に入ってくる街道の最初の宿場町だったと聞きます。冬は、かつてのまちの骨格が浮かび上がります。
雪の粒子で覆われると、新建材も人工の構築物も、木や草や遠く山並みまで連続していきます。学生時代、鈴木恂さんがご自身の原風景として雪で覆われた冬の北海道のことを、人工物と自然がすべて白一色で溶けあう風景のことを語られたことを今でも覚えています。

良質な砂鉄と並んで重要なのは火のちからです。
火のちからとはすなわち豊かな山林を意味しました。
鉄師 御三家と言われる 田部家、櫻井家、絲原家は日本での有数の山林の大地主でした。
たたら製鉄を陰でささえてきたのは製錬(せいれん)燃料である木炭の供給を行う製炭労働者。製鉄用木炭については、それを製炭するものを山子(やまこ)と呼び、かつては集団で広範にわたり製炭作業を行った。彼らは定住しなかったと言います。山を彷徨う鉄の民の存在もヤマタノオロチと重なるでしょうか。
製鉄用の炭は、樹種はナラ、クヌギ等硬質で火力の強いもの。

写真は炭窯と奥出雲最後の山子、高木氏(2003年 横田町教育委員会編 「大炭窯築造製炭技術解説」から)

 

 

 

奥出雲は良質な真砂砂鉄の大地。

鉄づくりの原料となる砂鉄を得るため、砂鉄を含む山を切り崩して水流に流し、比重を利用して選り分けて採取する「鉄穴流し」が、想像を絶するほどの規模でおこなわれました。

 

 

島根県斐伊川。 奥出雲町のスサノオノミコトが降り立った鳥上の山を源流に宍道湖まで流れます。

この写真は奥出雲町よりもずっと下流の平野部ですが、たたら製鉄のかんな流しの為に大量の土砂をこの斐伊川に流出させ、まわりの平野よりも川底が高い天井川となりました。 そのために川は氾濫して暴れました。ヤマタノオロチそのものですね。

写真は「週刊にっぽん川紀行 23号 2004/10/12」から。

 

大規模なかんな流しが行われた奥出雲町の大地は大きく改変されました。しかし、お地蔵さまやお墓、ご神木や祠など土地の歴史のなかで大切にされてきたものは、かんな流しで流さずに残され、その部分が丘のように残っています。

大地の記憶としてのたたら残丘。1000年を超えるながいじかん鉄づくりの営みの歴史が、景観をつくっています。

 

奥出雲の棚田

佐白地区。おそらく昭和30年代。僕の祖母や曾祖父が写っているかもしれません。

かんな流しで山を崩し、谷間に堆積した土砂で豊かな棚田をつくりました。

 

風化花崗岩の土壌には良質な砂鉄を多く含む。原料の砂鉄は山を切り崩し、水を操り比重によって砂鉄を得ます。

奥出雲の棚田の多くはこのかんな流しの跡地に拓(ひら)かれました。

水を操るかんな流しの水路が棚田に水を供給するインフラになっていると思います。

かんな流しという地形をも改変するいわば環境破壊の上に現代の日常である棚田が地層のように積み重なり接続された奇跡。

「一般に資源採掘現場は そこに住む人々を追い出し、木は根こそぎ切り倒し、山ごと潰して成り立っていると言われています。しかし、奥出雲町にはそれとはまったく異なる景観が広がっていました。砂鉄採取のために切り崩した山を美しい棚田に再生させ、今もそこに人々が住んで、おいしい仁多米を収穫し、豊かな暮らしを営みつづけている。私はそのありようをみて「この大地を後世に残したい」という先人の想いを感じ、これは大地に魂がこもっているなと、いたく感動しました。」

 

仁多郡内では和牛の飼育が盛んで、現在でも郡内で約4,000頭もの和牛が飼育されています。安全安心な土づくりのため大規模な堆肥センターを建設し、完熟堆肥による仁多米生産を行っています。 また、生産者大会を開催するなど産地ぐるみで減化学肥料、減農薬に向けて取り組んでいます

奥出雲仁多米株式会社 循環型農業への取組 から https://www.nitamai.com/company/nitamai