前田泰宏さん講演 「美の効用」について

内田咲子さんから誘っていただいた前田泰宏さん講演会の案内には「美の効用」とあり、当初、怪しい?と訝しんでいました 笑。しかし、前田さんのお話しが始まると一気に引き込まれ、笑いもあり、あっという間の一時間でした。

強烈なお話しで、頭のなかで整理できてないので、前田さんのお話しから思い浮かんだ断片を勝手に、強引に自分なりの関心に引き寄せ、感想として書き留めました。(メモもとってなく、脳内メモなのでちょっと出鱈目かも、、)

 

NHKに「プロフェッショナル」という番組があって僕も好きですが、なんとなくプロフェッショナルはすごくて、アマチュアは下に見てしまっていたような気がします。しかし、悪い言い方をすればプロフェッショナルはお金の対価としての労働なのに対して、アマチュアは対価に関係なく、純粋に自分がやりたいことをやっているのではないか、と気づかされました。それって、すごいことですよね。ヘンリー・ダーガー の1万5145ページのファンタジー小説シュヴァルの理想宮、、お金が貰えるとしても、そんな狂気とも言えるエネルギーを無尽蔵に費やすことはできないです。昔、磯崎新さんが「本当の芸術家はアマチュアだ」と言っていたことがずっと頭に残っています。話は変わりますが、奥出雲の棚田の景観も基本的には兼業農家、つまりアマチュアのちからで維持されています。おそらく仕事としてこの奥出雲で水稲を行っている感覚は無いと思います。その兼業農家の労働力も主力は60代~70代ではないでしょうか。したがって、奥出雲の棚田の景観の大半は、この10年で無くなることが容易に想像できます。

また、前田さんのお話しを聞いていて感じたことは、近代以前の労働が日常生活や信仰と未分化だったことについてです。「全体性」という言葉が好きです。近代は「全体性」のあった人の暮らしも要素に切り分けて管理できるようにします。「労働時間」という言葉があるように、それは私の生活と切り離されてしまいます。朝、家族の居る「住宅」から離れ、通勤して会社で勤め、夜になるとまた「住宅」に帰り、プライベートな時間を過ごします。会社からはお給料をいただき、そのお金を消費することで日常生活が維持されます。僕は一応建築の設計を生業としているので、「住宅」や「家族」とは何か、考えたことがあります。「住宅」や「家族」とは普遍的な存在に見えますが、やはり近代が生み出した制度のひとつなのではないかと思います。それは先述したような良き「労働者」であり良き「消費者」としての国民を生産、再生産するしくみのひとつとして機能していたんだろうと思います。

近代以前の、日々の暮らしのなかに労働が信仰や自然と一緒にあって(「祝祭性」、ハレとケ)、その場所で一緒に生業を営む構成員が暮らしていた場所のことをとりあえず「イエ」と呼んでみます。「イエ」に暮らすものは必ずしも血縁ばかりではなかったと思いますが、みんなが寝食を共にしながら生産活動を行っていたと思います。

話は飛びますが、いわゆるかつての日本型の会社は、この「イエ」の代替装置だと思うと素直に納得できます。終身雇用や年功序列といった制度も、会社が単に生産をする場所だけじゃなくて、そのひとの人生全体を包むような、かつての「イエ」の残像であって、社員は「イエ」の構成員のような帰属意識を共有していたのかもしれません。

 

前田泰宏さんの、「美」と「笑い」という視点で、観光資源から世界で起きている紛争まで、また古代ギリシャから現代の日本までを横断、縦断するというものさしの一貫性と視野の広さ、見識の深さに圧倒されました。

やっとこの季節らしくなった奥出雲。吹雪のなか、「お宿まつ」で10名弱の人数で 熱い贅沢な時間を過ごすことができました。

咲子さん、前田泰宏さんに感謝です。

 

 

追記:前田さんから咲子さんを通じていただいた興味深いお返事

「素晴らしい感想をありがとうございました。ご指摘のアマチュア主義は社会のパラダイムが変わる時に必ず顕在化する現象。それは、プロフェッショナルは資格化して秩序の構成単位となり、それが社会の変化に対応できなくなり、更に、秩序変更に対する抵抗勢力になります。
また、イエのご指摘は、別途私が体系化している100年経営学の中核であり、イエも、擬似型、ラージ型と複数の類型があります。

以上を宇田川さんにお伝えください。」