小林さんへの返信

小林 澄夫 様
前略
寒くなってきました。お元気でお過ごしですか。
遠州大念仏」「墓誌銘」そして図書掲載「土壁のある風景」いずれも貴重な冊子を送っていただきありがとうございました。お礼に何か僕も文書を描こうと思ったら、おじけずいて描けず今日までお礼も申し上げず失礼をしています。でも、すごくうれしかったです。

勇気を出して小林さんの詩に返信するような気持ちで少しだけ僕も文章を描いてみたいと思います。考えると描けなくなるので、ほとんど思い浮かぶままに。

遠州大念仏」
初盆の夜。向こう側とこちら側が地続きになるとき、その門を開く音。(「闇」という漢字は、門に音と書くんですね。)
この詩を読んだとき、少し切なくなりました。「日本風景批判序説」のなかの、若かった頃の小林さんのお母さんと、子供だった小林さんのことを思い出したからです。まだ若かった母と子供はバス停に出る道に迷い誰かが通りかかるのを待って鳥居の脇で休みます。
冬の空気の中。高い、高い冬の「青い空」の下で。

遠州大念仏・・・死者を供養する夏の夜。湿り気のある草木の生命の香に満ちた夏の夜の暗闇。
遠い時間の向こう。若い母と子は冬枯れの雑木の乾いた空気、透明な空気の中にいた。

狂い舞え・・・踊りのこと。
アンリ・ベルクソンの「物質と記憶」は読みにくく、なかなか手をつけられません。でもベルクソンは意識や理性よりも無意識や身体を信じてるひとなんだなと勝手に思ってます。
踊りは、身体に覚えさせた無意識の記憶。身体のリズム。意識までのぼらず、身体が反射的に動く。ベルクソンは意識の記憶は存在するかどうか疑わしいと思っても、身体が、無意識が覚えている記憶は信用できると考えたと思います。
身体の記憶。身体のリズム。一回的でありながら、それは私の外へ開かれた情報。意識ではなく無意識、身体が持つ情報だから。無意識や身体は遠い時間を越えて、命と接続されています。
言葉ではなく、文字ではなく、リズムが身体と通じて過去から、人から人へと伝えられる。言葉よりも、文字よりも原初的な情報。



写真は山中にあるロンシャンの教会堂に描かれた地中海(La mer)とカラス(Corbeau)

雪に埋もれた奥出雲。むこう側とこちら側が地続きになる不吉さのような郷愁のような不思議な感覚。