建築のその不自由さと、建築のその不自由さこそ建築の最大の強度であることについて。

1996年。上京して建築の勉強を始めた頃。当時はコンピューターやインターネットが一般的に普及し始めた時期で、自由な世界をつくりだすコンピューターの可能性が実感され始めた頃でした。対して物質的な建築を、バブルの反省もあって、不自由だと感じる気分も建築界にあったような気がします。

2023年。AIはすでに文書や絵画、音楽、そして建築をも生成できるまでに進歩を遂げています。
人工知能が人類の知能を超える技術的特異点、シンギュラリティの到来が言われています。

建築とは不自由なものだと思います。どんなにシステマチックなものでも、どこかで切断しないと建築にはなりません。「決める」ということは言ってしまえば、その切断面において恣意的でしかあり得ないと、僕自身は考えています。
そして、一度決めたら動かせません。一度出来上がったら建築は一定の時間存在し続けるしかありません。
動かせないからこそ、その建築を通じた経験は共有され、個人の、そして集団の無意識の受け皿として、みんなの自己の存在の連続性(自分が自分であること)を確かめる媒体と成り得るのだと思います。

僕は、建築のその不自由さこそが建築の最大の強度でもあるような気がしています。

知能や意識とは、無意識(身体)が持つ情報からすると氷山の一角だと思います。無意識の世界は深く、膨大で、深淵で、もしかしたら個を超えた世界に繋がっているのかもしれません。
建築はそんな無意識の世界の記憶を閉じ込める倉庫のようなものではないかと感じたのは、フランスのロマネスク教会で、古い時代の、キリスト教以前の雑多な神々が暗闇のなかで蠢くのを見たときでした。

 

 

写真はノートルダム・ド・セラボヌ小修道院。2004年。



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