建築について 

うーん
僕もそろそろ建築について考えなきゃいけない。と、いうかもともと僕にとっての建築とは何だったか整理していこうと思います。ようするに、僕はこういう建築をつくりたいんだという態度表明(といったら大袈裟ですが)みたいなものを少しづつでも自分なりに(ブログからでも)表現してみようということです。
あまりにも実務一辺倒なので、それでどんどん時間が過ぎていきそうなので、自分自身を誘導するためのささやかな抵抗みたいなもんです。いまどき「空間」なんて時代おくれかもしれませんが、僕の信じる建築ってそういうところにあるもののような気がします。



僕は卒業設計で「建築」をこう定義しました。「建築」とは3次元の場における境界面の設定であると。そしてその境界面に現れるのが「空間」であると。ここでいう境界面とは物理的な壁のようなものばかりではなくて、知覚的な差異の発生する場のことでないかと考えています。人間がそういう境界面を横断したとき(実際に移動するということではないですが)、空間が立ち現れると考えます。例えば人間にとって頭すれすれの天井高さと、例えば5mくらいの天井高さがきりかわる場所。暗がりに光が差し込む場所。手前になにか壁のようなものがあって生まれる奥行きの予感のようなもの。風の音や水の音がつくりだす静けさみたいなもの。

コルビュジェはこの知覚される空間と建築を現実に成立させるしくみを分節しようとしたのかなと思います。建築を現実に成立させるしくみとは例えば「ドミノ」です。これは柱とスラブによるシステムです。そしてその「ドミノ」によって大地から自由になった壁をつかって、それこそ自由に3次元の場における境界面の設定を行っていきます。






ル・コルビュジェ ラ・トゥーレット修道院。プレファブのパネル開口から光が入る。

ル・コルビュジェ マルセイユのユニテ・ダビタシオン。窓から自分自身の一部が見える。

ル・コルビュジェ サヴォア邸のファサード

ル・コルビュジェ 上野 国立西洋美術館。内部に中庭に面したファサードのような境界面を抱え込み、そこに穴をあけたり斜路で結ぶ操作を加えている。




「人間は身体を通して世界を分節する。人間は精神と肉体が根本的に分かれている二分的存在なのではなく、世界のなかで活動していける生ける身体的存在なのである。「いま ここ」とはこの明確な身体が置かれ、最初に自明とされる場所のことであり、それから「そこ」が現れるのである。この知覚の距離を通して、あるいはむしろこの距離を生きることを通して、周辺の空間はさまざまな意味や価値を賦与されたものとして明らかにされる。頭と足とか、左と右とか、前と後という非対称的な身体構造を人間は持っているので、分節化された世界は今度は、当然ながら非均質な空間となろう。・・・」
「テクトニック・カルチャー」(ケネス・フランプトン:著 TOTO出版 2002)から




[ル・コルビュジェ]
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%82%B3%E3%83%AB%E3%83%93%E3%83%A5%E3%82%B8%E3%82%A8




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