色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年

ノルウェイの森」を初めて読んだのは大学1年生のときだったか、2年生のときだったか。ちょうど19歳か20歳のときでした。僕はそのころ、松江で一人暮らしをしていて、何故だか60年代の若者の学生生活に憧れを持っていました。「ノルウェイの森」の冒頭の部分は何度読んでも、嗅覚や聴覚につながった自分の記憶のなかの感情を呼び覚ますようなものを感じることができます。
「僕は顔を上げて北海の上空に浮かんだ暗い雲を眺め、自分がこれまでの人生で失ってきた多くのもののことを考えた。失われた時間、死にあるいは去っていった人々、もう戻ることのない想い。」
色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年」はとても美しい文章で終わっています。そこには、ちょうど「ノルウェイの森」の冒頭の喪失の感情を埋めるてくれる救いのようなものがあります。
「すべてが時の流れに消えてしまったわけじゃないんだ」「僕らはあのころ何かを強く信じていたし、何かを強く信じることのできる自分を持っていた。そんな思いがそのままどこかに虚しく消えてしまうことはない」

松江での大学時代、3年生くらいだったか。それは春でした。缶コーヒーを買う為に夜中に下宿の外に出ると、春の空気のなかに、キンモクセイのにおいに包まれた夜の暗闇に、あてもないまだ見ぬ未来の膨大な時間の予感を感じたことを覚えています。それはとても幸せな感覚でした。当時の僕が最も恐れていたのは将来が決まってしまうことでした。先の見えない将来に向かって進む余地のあること。それが若さの特権かもしれません。今の時代はきっと逆なんだろうとも思います。将来が見えないことは、若さに与えられた幸せな感覚ではなくて不安にすぎないのかもしれません。

村上春樹の小説は、意識と無意識を分け隔てなく扱っています。無意識とは意識がつくりだす現実世界とは別の世界を生きるもうひとりの自分のことかもしれません。いや、実際は人間の存在のほとんどは無意識に支えられています。村上春樹の文章は常にその無意識と意識がつくりだす現実世界が並行して描かれています。無意識は意識の下の混沌ではありません。無意識はフィジカルな肉体そのものです。無意識は意識を超える圧倒的な現実です。 村上春樹の小説の登場人物が非常に危うい場所に居るとき、彼らはフィジカルに自分を律しようとします。規則正しく生活すること。できるだけ清潔にすること。ひとつの動作を繰り返すこと。そうしたフィジカルな手続きを通して、彼らは無意識を何とかコントロールしようとしているんだろうと思います(そんなことは不可能ですが)。

ノルウェイの森」は村上春樹の小説のなかでは特殊なものだと思います。ほとんど例外的なものかもしれません。「色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年」は「ノルウェイの森」に似ているなと思いました。

普段小説を読むことはほとんどないのですが、一気に読み通してしまいました。
主人公多崎つくるが僕と同じ団塊ジュニア世代で、設計を仕事にしている点がうれしかったです。彼のようにずっと駅を眺めていることはできませんが。



色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年

色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年