拝啓 小林 澄夫 様

ご無沙汰しております。
いつもながらお手紙や貴重な詩集を送っていただきながら失礼ばかりしています。
私と言えば、いつも何かに追われるような気分で落ち着かず過ごしていますが、でも何に追われているのか、私を追いかけるものは「仮面」を被った何者なのか、、
戯曲「仮面劇 コガネムシ」の最終版、送っていただきありがとうございました。
さいころ頃テレビで観ていたウルトラマンや映画のゴジラは、何故かある日突然日本に上陸してきます。圧倒的な不条理が世界を壊していくことを日本人は知っているような気がしました。いつどこで起きてもおかしくない大震災。毎年やってくる風水害。疫病や火災。それでも何事も無かったかのように、また新しい日常の営みが連続する不思議。
日本人のこのメンタリティはどこから来るものかわからないけど、儚い日常と、隣り合わせの巨大な不吉な何者かと、どこかで折り合いをつける身のこなし方を知っているような気がしました。タルということばのように―隣り合う、儚い日常(仮面)と、巨大な不吉な何者かは別々のものではなく、この世界の、同じ世界の別の見方に過ぎないのか、、
 仮面 タル ― 「レヴィ=ストロースは、素顔と化粧・刺青の関係についてこういっている。≪原住民の思考のなかでは、すでにみたように、装飾は顔なのであり、むしろ装飾が顔を創ったのである。顔にその社会的存在、人間的尊厳、精神的意義を与えるのは、装飾なのである≫(「構造人類学」)」 

 
 大変勝手ながら 小林さんの戯曲「仮面劇 コガネムシ」を僕の知り合いおふたりにも読んでいただきました。 感性の豊かな方で、是非小林さんの言葉に触れていただきたいと勝手ながら予てから思っていたおふたりです。


小林さんの言葉は、とても個人的な幼少期の記憶からたちあがるものでありながら、湿っぽくなく、何か地中海の青空とそこに吹く風を思わせるような神話的な響きがあります。

ただそこにそのようにしてありつづけるものについて私は、語るだけ。
ただそこにそのようにしてありつづけるもの、新鮮でそれでいてなつかしい思い。歓待の風景があるとしたら、私はそこで風景の歓待を受けたのだ。
ただそこにそのようにしてありつづけるものについて語ることは私達が失ったものがなんであるかについて語ることになる。漠然とした喪失感に言葉を与えることになる。みちたりた空虚に気懸りを与えることになる。一様で凡庸で退屈な砂を嚙むような味けない風景にざわめきを与えることになる。・・・ただそこにそのようにしてありつづけるものについて語ることは、私達が失った無垢と無償と犠牲について語ることになる。
田舎の忘れられてただそこにそのようにしてありつづける泥の小屋や灰屋・・・。私はそれらに出逢うたびにエピクロスのことを想う。
よろこばしい風景。
風景への挽歌・・・泥の小屋、土瀝青(どれきせい)を塗った木羽屋根(こばやね)、煙草の乾燥小屋・・・うち捨てられ、忘れられ、忘れ去られて間だけ残りつづけているもの・・・。
とどまるものというよりは狩猟民のようなもの。さまようもの。
無名の場所 
伝達されたものではなく、伝達されずに残ったもの
その言葉の意味ではなく 意味のまわりに生み出されるかすかなざわめき
半島の土まんじゅうの墓。石塔も石碑も無い無名の墓。
名づけえぬものを名づけようとすること。

 

小林さんのことばを拾い集めてみました。

 

 


資本主義こそは最も完成された社会システムだと思います。私自身、そう思っていました。
しかし 東日本の大震災、コロナ禍を経て、そんな資本主義社会の危うさを感じるようになりました。それは人々の無意識のなかに、確実に芽生えていると思います。
 たとえいくらお金があっても、消費社会が崩れたとき、目の前の一反の田んぼのほうが、豊かではないかと、実は今頃になって私は気づき始めているような気がします。

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近年田んぼを一反(実際は一反もなく6畝 程度)家族や手伝ってくれる知人とつくりはじめました この谷すじは代々先祖が守ってきた田んぼです。左官職人と同じで田んぼの水稲農業従事者はいなくなります。棚田の風景が維持されることは難しくなりました。