「風景」とテーマパーク

たたら製鉄でうまれた棚田に「風景」を感じます。
「風景」とは共有されてきたその場所での営みの時間と現代の日常が折重なるリアリティだと僕は勝手に定義しています。この場所での過去の営みの地層の上に現代の日常がきちんとあるという安心感。
真面目すぎるけど、だからテーマパークにはなって欲しくないと思います。なぜなら、テーマパークとは徹底してひとつのテーマに沿って世界をつくるけど、それはニセモノの世界だからです。
そこには本当の時間はありません。
ディズニーランドから外の世界は見えません。
ショッピングモールからも外の世界は見えません。
そこでは確かに大量の消費は生むけど、あくまで消費を生むためだけの装置です。
ついでに言えばオウム真理教サティアン も内部で完結しています。
突き詰めれば近代国家というものもテーマパークみたいなものかもしれません。
国家を形成するために「歴史」や「伝統」や「文化」も発明されました(日本の長い歴史を否定しているのでは無く、無数のなかから、選ばれたものだけが「歴史」となり、「伝統」となり、「文化」となるからです。本当はそんな単純なはずもないに。)。国民国家の最小単位としてつくりだされた「家族」は、国民を再生産する為に、住むためだけの場所「住宅」に閉じ込められました。
この場所での過去の人の営みのことを知りたいです。その営みの上に、生々しい日常があればいいなと思います。
そんな「風景」が奥出雲にもあると感じています。
しかし、その日常を維持していくことがとても困難な時代になりました。でもその困難さこそ、もう一度、ひととひと、ひととその場所とのつながりを生み出す原動力にもなり得ると信じたいです。