「デザインのデザイン」

何かいろいろ書き留めておきたいことなどあるけど日々あっという間に時間がすぎていく。本当に早い。ヤマノウチさんに髪を切ってもらったこと。s4fcで大勢の人が集まってくれたこと。shadowfcで大会参加してむちゃくちゃ疲れたけど気持ちよかったこと。カンボジアのメンバーが久しぶりに集まったこと・・。いろいろ準備のことなど考えると時間がもう無いことに気付く。

原研哉 著「デザインのデザイン」を久しぶりになんとなく読み返す。常日頃から「デザイン」という言葉をどう使ったらいいかわからなかった(今でもわからないけど)。原研哉は明快に「デザイン」とは何か、その歴史から語ってくれていて読んでいてもきもちいい。それによれば「デザイン」(という概念)はジョン・ラスキンウィリアム・モリスの思想にその源流があるという。「・・産業革命によって前に進みはじめた生産と消費の爆発は決して押しとどめられるものではなかった。・・ものづくりと生活との関係のなかに喜びを生み出す源泉が存在するという着眼あるいは感性は、デザインという思想の源流として、後のデザイン運動家たちに支持され、やがては社会に深い影響を与えていくことになる。・・」
共同体的世界には強力で圧倒的なシステムが存在していた。ものをつくるということ(生きていくということ)はそのシステムに従って自動的に行われる。ところが近代において共同体的世界は解体され、すべてが相対化されてしまう。カタチ、テクスチャー、色、素材・・ものを要素に還元し、もう一度ものをつくる原理を考えなければならなくなった。これこそがモダニズムという巨大なうねりの正体だったと思う。近代は装飾を否定したというけれど、正確に言えば近代において(ものを要素に還元する過程において)装飾は発見されたのであって、それ以前に装飾は存在すらしなかったといえるのではないだろうか。
現代の「デザイン」といえばプロダクトデザイン。貨幣経済は古くからあったとしても、それは生活に必要なものの対価として成り立っていた。現代の日本では生活に必要なものは充足しているので、あり余るもののなかで差異を生じさせる為に、消費させる為にデザインが存在する。「「今日あるものを明日古く見せる」という戦略は消費を動機づける目的で次々と計画され、デザインはその役割に応えて、次々と製品の外観を変転させていった。・・あらゆるプロダクツはスタイルチェンジを通してその存在を主張し、消費者の欲望をゆさぶっていくのである。」
こうした新しさは本当の新しさではなくイメージにすぎない。原研哉は21世紀的なリアルな新しさを「リ・デザイン」という言葉で表現している。それは見慣れた日常が未知化され現れてくるような風景だという。
「デザイン」の祖モリスは過去(中世)に理想を置いていた。モダニズムは見たこともないような未来に理想を描いた。そして現代は、見慣れた日常に未知の可能性を見出そうとしている。こういう感覚(今までデザインの対象として意識されなかった要素の見直し)は今の若い建築家達とも共通するところがある。何年か前の新建築か何かの連続論文企画「パラメータシフト」を思い出した。
「建築」は「デザイン」とも「アート」とも異なるけど各時代で共振しあっている。だから上の文章で、「デザイン」を「建築」に読み換えても、ある意味成立すると思う。

最後に、この手の文章は僕がぼんやり考えたことをカタチにする文章のスケッチのようなものであることをご了承ください。





デザインのデザイン

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