今更だけど思想地図voi.3「アーキテクチャ」(東浩紀・北田暁大 編)を読みました。そして木綿街道ブックマーケットでたまたま見つけた「フーコー 知と権力」(桜井哲夫著 2003年 講談社)も合わせて読みました(拾い読み程度だけど)。
以下、それらの感想といいつつ、自分なりに感じたことを適当に綴ってみます。
「アーキテクチャ」とは社会を維持する為に人を制御するしくみと言ったらいいでしょうか。近代以前の封建的な社会では、人は村落共同体のなかで役割を与えられていました。その役割が、その人の生きる意味だったと思います。共同体で共有される形式が意味を持っていました。現代のわれわれが装飾と呼ぶような形式こそが、その存在の意味そのものでした。
「レヴィ・ストロースは、素顔と化粧・刺青の関係についてこういっている。《原住民の思考のなかでは、すでにみたように、装飾は顔なのであり、むしろ装飾が顔を創ったのである。顔にその社会的存在、人間的尊厳、精神的意義を与えるのは、装飾なのである。「構造人類学」》」(柄谷行人「内面の発見」より)
つまり、装飾の無い素顔は顔ですら無かったわけです。この「顔」の部分を「建築」に置き換えることもできます。装飾は建築なのであり、むしろ装飾が建築を創ったのである、と。
ところが近代になると、人はそうした役割(形式)を与えられなくなります。近代国家は「市民」という概念を生みだします。「市民」とは役割(形式)を押し付けられなくても社会の一員と成れる自立した個人のことです。これが近代における主体化です。
主体化した個人は、それまでの封建的な社会のように役割(形式)を押し付けられなくても社会を支える一員として生きてゆくことができます。これは一見自由な権利が与えられたように見えます。ところがフーコーはそこにこそ見えない権力が隠されていることを指摘します。警察や軍隊といった暴力装置はわかりやすい権力です。話し方、考え方、行動の仕方までトレーニングする学校という制度、家族、メディアなどの領域も国民の自発的服従を生みだす「国家のイデオロギー装置」だといいます。見えない権力によるイデオロギーは無意識化されてしまうので、むしろ強度を持つと言えます。例えば血縁による「家族」という社会から自立した集団も近代以降に生み出された制度にすぎません。ところが我々は「家族」といえばあまりに自明なものだと考えてしまいます。働く場所や社会と切り離され、住むためだけの場所としての「住宅」も近代以降発明されたものです。「住宅」や「集合住宅」もまた「家族」という「国家のイデオロギー装置」を無意識化させる教育装置だったといえます。
ところが、後期近代、つまり現代の日本のような社会では、もはやそうした主体化自体が不要と言われています。現代は主体化を促すイデオロギーではなく、前近代のように共同体で共有される役割でもなく、極端に言えば、快、不快、興味がある、ないといった動物的で自己完結的な動機で人をコントロールすることができます。こうした環境管理型権力も「アーキテクチャ」と呼ばれます。
関連日記
動物化するポストモダン 続
動物化するポストモダン
メモ 100623
備考
アーキテクチャ
参考書籍
NHKブックス別巻 思想地図 vol.3 特集・アーキテクチャ
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