「住宅」とは何か 05

ひとつの写真は、へんれきする人びとの集まるところを描いた 網野善彦 文 司修 絵の「河原にできた中世の町」から。
もうひとつは現代の住宅地。

近代以前の日本にはいろんなひとたちが暮らしていました。住む場所や生業によって、ちがう言葉、ちがう習慣、ちがう時間を持っていました。
近代の学校は同じ時間や言葉を教えます。毎朝通勤して会社に勤めるという当たり前のことも、最初はこうした訓練が必要でした。そうして生まれた均質な市民を再生産する必要があります。

「家族」を容れる、住むためだけの場所「住宅」は労働者を管理して、再生産するためにつくられました。それまでの家は、「家族」が住むためだけの場所ではなく、その場所で人が生きていく為に多数の他者と共に働き、多数の他者と共有された場所の一部でした。
管理される単位としての「家族」はまた、資本制社会の消費者の単位でもあります。土地も、建物も消費される個人の私有物になりました。こうして日本は「経済的に組織されている」空間がどこまでもつづく風景になりました。





話はとびますが、現在様々なことやものを共有(シェア)することが意識されています。「経済的に組織されている」空間が少し崩れ、近代以前とは違うカタチですが、多数の他者と何かを共有することで、生きているリアリティを感じようとする人たちが増えてきているのかなと思います。















「「社会という空間」は「1住宅=1家族」の標準化という住宅の供給システムと深く関わっている。でも、「社会」の内側にいて、こうした「1住宅=1家族」の住人である限り、この「社会」の根源的な矛盾に気づくことはない。根源的な矛盾というのは「社会」が「経済的に組織されている」空間でしかないということである。ただ私的な利益のみを目的として組織されている空間なのである。この「社会という空間」の中では多数の他者と〝共にある〝という意識が徹底して排除される。すべての他者はそれぞれにただ私的な利益を目的とする他者なのである。」
(思想 2014 9月号 山本理顕 「個人と国家の<間>を設計せよ」 から引用)



思想 2014年 09月号 [雑誌]

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