動物化するポストモダン 

東浩紀著「動物化するポストモダン」を読んでみました。東さんの「動物化」という言葉に関心を持ったのは「アーキテクチャ」という言葉を耳にするようになってからです。近年「アーキテクチャ」とは人間を無意識のうちに管理する工学的で匿名的な権力の総称として使われるようになりました。

フーコーの権力論に見られる問題意識は、近代化の本質は「主体化」であるというものでした。近代社会は、強力な権力によって脅して従わせるのではなく、主体化させることによって、社会のフォーマットを実現する。主体化とは、道徳規範の内面化とは違って、自己決定的な主体であろうとして悪戦苦闘することを内面化した存在だというわけですね。
要は命じられたり脅されたりしなくても自発的に人間であろうとすることによって、意図せずして一定のフォーマットを集合的にアウトプットしてしまうような諸身体が社会空間にあまねく分布することで、近代の社会システムが成り立つというのです。
自己決定的な主体であろうとして悪戦苦闘するような身体として整形することを、ディシプリン(規律=訓練)を施すと言います。ディシプリンを施す装置が、広い意味での教育のシステムだと言えます。近代社会は、法や道徳よりも、こうしたディシプリンが実現する「主体化」によって、必要なフォーマットを実現しているというわけです。(宮台真司「私たちが住みたい都市」から)」

近代建築もそうした近代的システムに適合した「市民」や「家族」という枠組みを生みだし、再生産する教育装置としての役割を持っていました。近代建築が標準化を目指すのは、本当は人間の標準化が最大の目的だったのです。日本でいえば、異質な村落共同体の成員であるムラビトや、定住しない流浪の民などを「日本」という近代国家の構成員として標準化することは重要なテーマだったはずです。

「ところが僕達が生きるポストモダン=後期近代を見ると、そうした時代は終わっています。ディシプリンの代わりにあるのは、監視テクノロジーを含めたアーキテクチャーです。アーキテクチャーの働きによって、ディシプリンによる「主体化」に負担をかけることなく、社会システムに必要なフォーマットを実現できるようになりました。「主体化による権力」から「アーキテクチャーによる権力」にシフトするわけです。(同上)」

高度に発達した消費社会では、近代化の過程で必要とされた人間の「主体化」も不要となり、社会システムを維持するための人間のコントロールが快、不快といった「動物」的な欲求に対する環境制御によって行われているというのです。





・・・・うーん まだまだまとめきれないので今回はここまで。





参考文献

動物化するポストモダン オタクから見た日本社会 (講談社現代新書)

動物化するポストモダン オタクから見た日本社会 (講談社現代新書)

NHKブックス別巻 思想地図 vol.3 特集・アーキテクチャ

NHKブックス別巻 思想地図 vol.3 特集・アーキテクチャ

近代国家と家族モデル

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