結ぶことほどくこと


泥壁の表情




すすで黒ずんだ泥壁。藁すさが見えます。





写真は横田にある民家の壁です。泥壁。
「そこには、建てることが結ぶことだという思想があった。結んだものはほどくことが出来る。・・・この結ぶことのソフトな技術を見事にみせてくれるのが、木舞土壁である。竹の木舞を編み、水で結んだ泥を塗り、乾かしてまた塗り重ねていく泥壁は、性急に人為で剥がすのでないとしたら、湿った風や雨水によってゆるやかな自然の時間の中をほどかれていく。そうして、水で結ばれたものは水でほどくことが出来るし、ほどくことが出来るものはまた結ぶことが出来る。(小林澄夫 「左官礼讃」より)」

現代の日本の街並み、景観のよそよそしさはデザインの問題ではありません。
建築は完成し、引き渡されるものになりました。
近代以前、建築や土地に対して個人が所有するものという感覚はあまりなかったと思います。建築は共同体のなかで、ゆるやかに変化し、長い時間をかけて受け継がれていくものだったと思います。鈴木博之さんがおっしゃってましたが、昔の民家は増改築を繰り返しながらも、母屋(主構造部分)は300年くらい持ったそうです。

建築は個人がお金を出して買う商品となりました。商品になるためには完成してないといけません。現代の日本の街並み、景観のよそよそしさはそこからきています。完成した商品の集まりなのです。自然と人間の営みの関係。その時間の連続性のなかでつくられる風景とは全く異なる世界です。それは近代と前近代の違いです。

資本主義社会はいきずまりを見せています。感覚的にですが、それが決して悪いことだけだとは思いません。建築が、街並みが商品から逃れられるきっかけが生まれるのではないか。そんな予感もあるからです。
もちろんそれは僕を含め、建築産業にとっては厳しい時代です。
でも何故か泥壁を眺めているとバブルのほうがよほど悲劇的な出来事に思えてしょうがありません。