鳥上/クロンマクノイズ/風景

普段 何気なく見ていた鳥上の風景が、たたらの遺構の上に成り立っていたことに驚きました。恥ずかしながら、そんなことを意識したことはありませんでした。



9年くらい前、アイルランドを旅行する機会を得ました。
内陸部を横切るシャノン川のほとり、クロンマクノイズ修道院跡を訪れたとき、何故か「風景」という言葉が浮かびました。
そのとき「風景」は人間がつくるものだと思いました。その場所で育った者はこの光景を忘れることは無いだろうと思いました。修道院の廃墟ですが、無数の墓石のいくつかには今朝活けたばかりのような花が供えてありました。

新しく造成されたまちとは違って脈々と流れてきた人の営みの連続の上に現代の日常があるということのすごさを感じました。
鳥上の田んぼや、炭がつくられた遠くの山並みを眺めたとき、そのとき感じた「風景」と同じ感じがしました。
人々に共有された営みの連続は神話を生み、神話は長い営みの記憶として人々に共有され続け、眼前の風景に時間的な奥行を与えてくれるんだなと思いました。
何よりも、長い長いこの地での鉄を生み出す営みの時間の形跡、遺構の上に現代の日常が、田んぼやこんもりとした丘、墓石といった見慣れた日常があることに感動を覚えました。







鳥上の田んぼ。かんな流しで切り崩した跡が現代ではたんぼになり、残された部分がこんもりとした小山になって、日常の風景を形成しています。水の流れをつくることがかんな流しであるなら、それはそのまま水田に水を供給する水の流れにつながります。