「住宅」とは何か 03

「家族」を容れる場所 −中廊下型住宅(大正時代)
日本の近代の住居史は、「私」や「家族」など本来自律して存在しなかったものが発見されていく過程でした。共同体が消えてゆき、「郊外」が発見され、生産の場(仕事をする場所)と住む場所が別々になり、「家族」という存在が浮かび上がってきます。そして「家族」という自律した存在を認識する場所として「住宅」が生まれました。郊外の住宅地に中流家庭の為の「住宅」が計画されます。その典型のひとつが「中廊下型住宅」でした。

「中廊下型住宅またの名「茶の間のある家」は「家庭」家族を目に見える形に析出し、しかも外から区切られた狭い空間に夫にとっての私生活と家族の団らんを保証、外で働いて収入を得る夫と家事育児に専心する妻の役割を分けることに成功したのであった。(西川祐子著「近代国家と家族モデル」より)」

もともと日本の家屋には明確な間仕切りはありませんでした。「中廊下」の発生とは即ち明確に区切られた部屋の発生とみることもできます。それまで生産や接客のための場所が家の中心であったのに、「家族」の集まる場所が家の中心に自律した部屋として確保されたという意味で象徴的な出来事だったと言えます。しかしながらまだ家父長制の名残としての客間が社会との接点の場として残されていて、就寝の為の特定の場所もありませんでした。


個室の誕生と客間の喪失 −nDKの誕生(戦後)
戦後の圧倒的な住宅不足のなか、戦後の公的な住宅政策のひとつとして公営住宅法があります。1945年の住宅不足数は450万戸にのぼるといいます。公営住宅法に基づき地方自治体は低所得者向けの公営住宅を大量に供給し始めます。そのとき標準的な住宅モデルとなったのが東京大学吉武研究室の「51C型」のプランでした。この「51C型」は西山卯三の小規模な住宅(長屋)を対象とした調査の影響を受けて生まれます。その西山の理論とは、住宅は家族が集まる公室(DK)と、個人の私室(n)から成るというものでした。寝食分離、すなわち個室の確立です。そして家族が集まる公室には流し台が置かれました。「茶の間のある家」でも流し台は茶の間とは隔離された裏側にありましたが女性建築家の浜口ミホが提案したステンレスの流し台が家族が集まる公室に置かれ「DK」が出来上がります。こうして「51C型」を原型とした「2DK」が誕生しました。
2DKのもう一つの特徴として「茶の間のある家」で残っていた客間の喪失が挙げられます。もともと最小限の住宅だったので切り捨てられたのかもしれませんが、床面積が増えていってもn(L)DKのnの数字が増えるだけで接客の為の場所は消えたままになりました。
共同体が消えてゆき、生産の場(仕事をする場所)と住む場所が別々になり、社会から分離されることで発見された「家族」。そしてその「家族」を容れる場所として誕生した「住宅」。その「住宅」に残された接客の為の場所そのものがもともと幻想であったのかもしれません。

「・・2DKが、なぜ日本中津々浦々に流布していったのか。そのことをいろいろ考えました。例えば山本さんが言うように社会との接点があるようには考えられてはいない。一つには、外とは接点がない住宅だからこそむしろ、上にも横にもつなぐことができる。そこにドアまで行ける階段なりエレベーターがあればどんどん高くすることができる。・・(山本理顕編「私たちが住みたい都市」より)」

2DKは社会から隔離された「家族」を容れる完結したユニットとなりました。完結したユニットは積み重ねることができます。こうして集合住宅ができあがりました。

原宿 同潤会アパート同潤会は戦前。関東大震災後。)


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