自分が自分であること。建築と自己同一性について。

自分が自分であること。

藤森さんの言葉だったか、昨日と同じ街があって、昨日と同じ建築があって、朝起きると確かに昨晩寝た部屋で目覚めること。人が、自分が昨日までと同じ自分であることは、そんな連続性で確かめてるんじゃないか、といったニュアンスのことを仰っていた(どこかで書かれていた)ように記憶しています。

そういえば、新世紀エヴァンゲリオンでシンジは白い壁に囲まれた部屋で目覚め、「知らない天井だ」と言うシーンがありますね。
 三浦展さんが「独身者の部屋宇宙──高円寺スタイル」で郊外のニュータウンで起きる特異な事件について、郊外の持つ独特な不安定性を指摘されています。
自分が自分であることなんて、当たり前で、確かめる必要性なんてあるわけがない、と思っていましたが、時々不安になることがあります。単に歳をとったせいかもしれませんが、、。でも建築がその場所にあり続ける意味ってみんなの記憶の媒体として、自分が自分であることを確かめることができる拠り所としての役割もあるのかもしれないですね。
そして、建築は自分の人生を超えて、その記憶を後世に残してくれる存在でもあります。
今日、株式会社トルクス 山田さんから、解体予定の三成小学校の校舎を3Dスキャンしてデジタルデータとして記録するという連絡をいただき見学したときに、そんなことが思い浮かんでいました。

校舎にはみんなの愛情のある落書きが。みんなの記憶。

 

昔設計させていただいた三成小学校の間仕切り。