建築が好きになる 24歳の頃 / A3(職人・芸術・建築)ワークショップ
建築が好きになったきっかけのひとつは1998年に早稲田大学で石山修武さんが催されたA3ワークショップでした。2週間、24時間とにかく建築漬けの日々でした。参加者は建築家の卵から学生、ゼネコンの設計部から銀行マン、左官職人から主婦まで多種多様。午前中は第一線の建築家や哲学者、芸術家などのレクチャー、午後はひたすら手を動かす毎日でした。それまで建築の世界から離れた場所に居ると思っていた自分にとって、それまで鬱積していたものが全部消えていくような素晴らしい時間でした。
石膏で照明器具を考えなさいという課題。学生時代はどうしても頭でばかり考えがちです。それは狭い世界なんですね。
原寸で考えること、手で考えること、リアルな素材を手で触れて考えること。
原寸で、実際の素材に触り、手を動かしてるくること。そこから始まる世界の方が実は建築に近かったりします。
一枚の板が折れたり、曲がったり、孔があいたり。
自分らしく、自分のものとして建築をデザインできている実感がありました。こんなことは初めての体験でした。
これも石山さんからの住宅の課題。細長い敷地でひたすら壁の建築を考えました。
このとき初めて幾何学を下敷きに考えました。5m*5m*5mの立体を長手に7つ並べました。このようなルールに身をゆだねたとき、はじめて自由になった気がしました。石膏のモデルで学んだことを活かして、壁が折れたり、曲がったりして光や人の出入り口が生まれていきました。幾何学の下敷きというルールがあることで、自分の感覚が世界とつながって自由に建築が生まれていくような気がしました。
「お前はできる」石山修武さんがこの汚い模型を見て、そう仰いました。
学生時代はよい意味での勘違いも大切なものではないかと思います。
これ以来、すっかり自信を深め、また建築の面白さに目覚めた僕は、下手くそでもなるべく手を動かしてたくさん模型をつくるようになりました。
伝説的な石山修武さんのA3(職人・芸術・建築)ワークショップ。いまレクチャーの講師陣のラインナップを見ただけでも信じられないような顔ぶれです。石山修武、鈴木博之、磯崎新、藤森照信、山口勝弘、梅沢良三、佐藤健、中川武、尾島俊雄、池原義郎、平野甲賀(グラフィックデザイナー)、二川幸夫、津野海太郎(評論家)、坂田昭(音楽家)、森田兼次(日左連会長)等々
#石山修武
海の夢 ル・コルビュジエについての断章
お彼岸。
太陽が真東から昇り真西へと沈む、秋分の日は、この世(此岸)とあの世(彼岸)が地続きになる日。
建築の本質は境界をどうつくるか、ということだと考えてみます。
その境界をきっかけにして内部と外部が生まれます。
境界は何か特別な場所ではなくて、言い換えればその内部と外部が、図と地が、プラスとマイナスがひっくり返る「ゼロ」のような場所。
無限定に連続する場を切断すること。
お彼岸は、ちょうどその境界の上に立ったときの、内部でも外部でもなく、図でも地でもなく、プラスでもマイナスでもない、それらが地続きになる日なのかもしれません。
現実と夢も地続きになる日。海の夢を見ました。
それは晩夏の地中海の夢でした。
強い太陽の光とすべてを飲み込もうとする海。
古代ギリシアの透明で普遍の光を映す海の波間、その海面は、不定形で不透明な世界との境界面でもあります。
そしてその海面の下は、地中海の文明を生んだクレタの怪物ミノタウロスの住む迷宮の深部へとつながっていきます。
青年の魂が触れたものはなんだったでしょうか。
青年は両親から授かった名を捨て カラス(Corbeau) と名のります。
カラス(Corbeau)と太陽(Soleil)と海(La mer)/ロンシャンの礼拝堂
カラスはギリシャ神話のイカロスにも見えます。イカロスは、あまりに高く飛んだため、太陽の熱で翼が溶け、海で命を落とします。
「建築家・内藤廣/BuiltとUnbuilt 赤鬼と青鬼の果てしなき戦い」
山代さんレクチャー_UMITO
SUKIMONOさんからお声がけいただき温泉津で建築家 山代 悟さんのレクチャー中大規模木造のお話を聞く機会を得ました。
国内外の動向からご自身の近年のお仕事まで直接聞ける機会は貴重でした。
木造中規模ビルを普及させる為の標準モデルの研究も、とても大切な仕事だと感じました。それは、都市木造の仕事がいかにタフなもの(多層構造、防耐火、外装等、、)であるか知る山代さんだからこそのテーマだと思いました。
20世紀、コルビュジエはドミノ(鉄筋コンクリートで水平のスラブを積層させるシステム)を提唱しますが、21世紀は木質構造の中規模以上のフレームの標準モデルがテーマのひとつになるということかなと受け止めました。
木材は鉄やコンクリートと異なり、太陽のエネルギーを利用して炭素を固定しています。また木材は島根のようなローカルなエリアで身近にたくさんあるはずの資源です。
木材や森林を巡っては、もちろん課題を挙げればきりがないと思いますが、懐かしくて新しい未来を信じるポジティブな視点こそ大切なんだなと改めて思いました。
君たちはどう生きるか
建築のその不自由さと、建築のその不自由さこそ建築の最大の強度であることについて。
1996年。上京して建築の勉強を始めた頃。当時はコンピューターやインターネットが一般的に普及し始めた時期で、自由な世界をつくりだすコンピューターの可能性が実感され始めた頃でした。対して物質的な建築を、バブルの反省もあって、不自由だと感じる気分も建築界にあったような気がします。
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2023年。AIはすでに文書や絵画、音楽、そして建築をも生成できるまでに進歩を遂げています。
人工知能が人類の知能を超える技術的特異点、シンギュラリティの到来が言われています。
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建築とは不自由なものだと思います。どんなにシステマチックなものでも、どこかで切断しないと建築にはなりません。「決める」ということは言ってしまえば、その切断面において恣意的でしかあり得ないと、僕自身は考えています。
そして、一度決めたら動かせません。一度出来上がったら建築は一定の時間存在し続けるしかありません。
動かせないからこそ、その建築を通じた経験は共有され、個人の、そして集団の無意識の受け皿として、みんなの自己の存在の連続性(自分が自分であること)を確かめる媒体と成り得るのだと思います。
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僕は、建築のその不自由さこそが建築の最大の強度でもあるような気がしています。
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知能や意識とは、無意識(身体)が持つ情報からすると氷山の一角だと思います。無意識の世界は深く、膨大で、深淵で、もしかしたら個を超えた世界に繋がっているのかもしれません。
建築はそんな無意識の世界の記憶を閉じ込める倉庫のようなものではないかと感じたのは、フランスのロマネスク教会で、古い時代の、キリスト教以前の雑多な神々が暗闇のなかで蠢くのを見たときでした。
写真はノートルダム・ド・セラボヌ小修道院。2004年。
#ノートルダム・ド・セラボヌ小修道院
# ロマネスク教会
# フィルム写真
広島ビッグアーチ(エディオンスタジアム広島)