海辺のカフカ

久しぶりに村上春樹の「海辺のカフカ」を読んでみた。なんていうか、よくわからないけど、とりあえず村上春樹の小説に浮かんでみることだ。海へ向かって流れる川の流れに身をまかせて浮かんでいるみたいに。僕は川に浮かんでいる。そして大きな橋の上から川を覗き込んでいる。夕闇の空の下、橋の上から暗闇の中を流れる大きな川を覗き込む。ずっと下の川面は深い暗闇の境界面だ。ゆっくり流れる水は冷たく、深い。水面は街の光を映して暗闇のなかゆらゆらと光っている。落ちたら助からないだろうなと思う。でもその大きな川の暗闇は自分の体の一部みたいに見えることがある。
海辺のカフカ」は現実と非現実が入り混じった物語だ。こちら側とむこう側が地続きになっている。自分と世界との距離がつかめなくなる。自分のいる位置がわからなくなる。でも、僕らが考える現実とは実は世界のひとつの見方であって、自分がいて、そのまわりには自分からある距離をもった他者、世界があるという遠近法にすぎない。



「私が「距離」とよぶものは、むろん実際の距離のことではなく、世界に対する内的な関係のことである。われわれはたとえば世界を客観あるいは客体としてみるが、そのような遠近法は近代以前の人間には存在しなかった。たとえば、デカルトは『方法序説』のなかで、自分は夢をみているのかもしれない、しかしたとえそうだとしても「我思う」ということだけは疑いないといっている。つまり、デカルトがコギトから導きだした「主体―客体」という世界は、それ自体が一つの「夢」のなかにつつまれたものであるかもしれないことを前提としている。(中略)十九世紀に確立したリアリズムは、デカルトにおいて抽象にほかならなかった。「主体―客体」世界を、あたかも実在するかのようにみなしている。それは、世界に対して客観的な中性的な「距離」―しかも何によってもおびやかされないような―をとりうるという確信にもとづいている。しかし、それは一つの仮構なのであって、われわれが生きている世界は、けっしてそのようなものではない。
柄谷行人 「夢の世界」)」





「『雨月物語』なんかにあるように、現実と非現実がぴたりときびすを接するように存在している。そしてその境界を超えることに人はそれほどの違和感を持たない。これは日本人の一種のメンタリティーの中に元来あったことなんじゃないかと思うんですよ。それをいわゆる近代小説が、自然主義リアリズムということで、近代的自我の独立に向けてむりやり引っぱがしちゃったわけです。個別的なものとして、「精神的総合風景」とでもいうべきものから抜き取ってしまった。そこから話がややこしくなってきた。
村上春樹 「夢を見るために 毎朝僕は目覚めるのです」)」
















「名古屋を過ぎたあたりから雨が降り始める。僕は暗い窓ガラスに線を描いていく雨粒を眺める。そういえば東京を出るときにも雨は降っていたなと思う。僕はいろんな場所に降る雨のことを思う。森の中に降る雨や、海の上に降る雨や、高速道路の上に降る雨や、図書館の上に降る雨や、世界の縁に降る雨のことを。」
(「海辺のカフカ」)











海辺のカフカ〈上〉

海辺のカフカ〈上〉

意味という病 (1979年)

意味という病 (1979年)

夢を見るために毎朝僕は目覚めるのです

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