磯崎新「海のエロス」

「ひとりの男のうしろ姿を撮った一枚のスナップが、私にはどうも忘れられないでいる。それは、地中海の光景だ。まったいらにひろがる水平線、おそらく、焼きついた浜辺の小石のうえを、おどるようにとびはねながら、海へむかっているひとりの老人の水着姿なのだ。」
 学生時代、ル・コルビュジエを追いかけていたとき出会った磯崎さんのこの美しい文章は僕にとっての地中海への憧れと、その後、地中海へ向かう旅の動機になりました。

 スイスの山中、長い冬を過ごすラ・ショー・ド・フォンで育ったコルビュジエは地中海の光線—建築を生み出す理性の光と出会います。しかし、古代ギリシャの不変の光を映す海の波間、その海面は、不定形で不透明な世界との境界面でもありました。その境界面の向こう側の世界、はるかな海そのものの奥部にギリシャ文明を生み出した原郷をコルビュジエは見たでしょうか。

 「プラトンの純粋形態、あるいはフィディアスの透明な秩序が支配した世界は、実は彼らの神話のなかに対極とでもいうべき不透明で暗黒でおおわれた闇の世界をもっている。それは怪物ミノタウロスの住んだ迷宮である。」

コルビュジエは理性の光の透明性(プラトンの純粋形態)というキャンバスを得たことで、その肉体(不透明な闇)から建築を生み出し続けたのではないか、と夢想することがあります。それは手におえない怪物との格闘であり、同時にとても官能的で、肉体的な行為です。

「海はすべての瞬間に介在している。これらの事件のすべてに浸透しているといってもいい。それは、海。すなわちエロスが、蒸溜した透明性の論理を裏切り、たえまない復讐をつづけているからにほかなるまい。そのような海に身をゆだねることは、あのうしろ姿のスナップにみえるように、死へむかって、全身の筋肉を弛緩させることでもある。」

 

 

ユリイカ 臨時増刊号 第20巻第15号  「総特集 ル・コルビュジエ」より)

 初出は「建築の地層」彰国社1979

 

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